人と神と牛との間
―パフォーマンス研究の観点から見た徳之島の闘牛―
浮キ世ヤ借イシマ(この世の生は神からのかりものである)
〔徳之島の古い諺より〕
1 はじめに
本稿では、徳之島の闘牛をパフォーマンス研究の視座から解釈することを目指している[1]。まず、パフォーマンス研究が何かを概観し説明する。次に、徳之島の闘牛を扱う前に、日本の闘牛に関する一般的な特徴をまとめる。そして最後に、徳之島の闘牛をパフォーマンス研究の立場からどう見ることができるのか、いくつかの可能性を取り上げ論じる。注釈するが、このペーパーは特定の問題の解答を出そうとするのではなく、物事(徳之島の闘牛)を新たな角度(パフォーマンス研究)から分析し、考察することが目的である。
2 パフォーマンス研究という研究領域
徳之島の闘牛をパフォーマンス研究を踏まえて検討する前に、パフォーマンス研究というのが一体どういう理論枠組みであるのか、そして、なぜこうしたアプローチが役立つのかを大まかに説明しておきたい。
簡単に言えば、パフォーマンス研究とは、学際的(interdisciplinary)かつ間文化的(intercultural)な研究領域であり、広義のパフォーマンスを基準に、演劇の上演や音楽の演奏という美学的分野のみならず、他の無数の専門分野、例えば文化人類学、社会学、教育学、修辞学、ジェンダー研究、クィア研究、ポストコロニアル研究なども括ることが可能な、文化に対する一連のアプローチであると定義できる。
パフォーマンス研究の発展に指導的な役割を果たしてきた、アメリカの文化人類学者リチャード・シェクナー(Richard Schechner)によれば、「パフォーマンス研究は〔純粋性〕に価値を認めない。われわれの立場は全く逆で、学問研究は常に流動的な交接面(interface)においてこそ、価値と活力を常に侵犯していくことは、われわれの仕事の一部である。……〔間〕を受け入れることは、単一の知の体系、価値観、研究対象の確立には、それがいかなものであれ、反対するということだ。パフォーマンス研究とパフォーマンス理論は、未完で、開かれていて、多義的で、自己矛盾的である」(シェクナー
1998: 6-7)と述べている。よって、常に既存の学問体系の周縁にあるパフォーマンス研究では、応答、秩序性、固定された境界ではなく、質問、流動性、多孔性を優先すると言っても良い。また、一見パフォーマンス研究は掴みどころのない研究領域であるように見えるかもしれないが、高橋(2011: 18)の言葉を借りれば、「変幻自在に多様な問題系に挑みかかる研究姿勢を、パフォーマンス研究の肥沃さ、かつしたたかさと考えれば刺激的である」と言えよう。
しかしながら、ここで分かりにくくなっているのは、パフォーマンスという決して一様ではない概念ということであろう。パフォーマンス研究の見地において「パフォーマンス」とは、所与の条件で本質的な「存在」(beings)どころか、「行為」や「行動」、「イヴェント」(doings)などという意味と考えれば良い。パフォーマンスが何を指示するかが、時代や社会、そしてパフォーマンス単語の使用者によって異なってくる。これに従えば、現に各集団の特性は一連のパフォーマンスにより構築されていると言える。集団の特性は当の集団に属している人々がつねづね学んだり、練習したり、発表したりする行為や行動に他ならない。こうして見れば、パフォーマンスの第一の特徴は変化性であり、そこで大変興味深いのは人間がパフォーマンスの繰り返しを通じて自分自身を創造する、変化する、そして日常的ではない者となるという驚くべき能力である。
パフォーマンス研究のその他の創立者、アメリカの文化人類学者ヴィクター・ターナー(Victor Turner)は儀礼と演劇的なパフォーマンスとの類似点を見いだし、人々が言語を除き身体を媒介にもメッセージを生み出すと指摘した。こうした身体的な表現が研究すべき普遍的な文法の一種であるのではないかとも主張した。
また、パフォーマンス研究はいかなる問いを提起するだろうか。例として、あるパフォーマンスはどのような状況の下で成り立たれたかや、どのような構造をもつか、どのような関係を可能にするか、社会にどういうふうに影響を与えるか、こういった影響が年月の間をどのような形で変わってきたかなど、という基本的な問いが挙げられる。
では、一般になぜパフォーマンス研究は有用であるか、あるいは、こういった理論枠組みの利用の長所とその結果は何であろうか。まず、前述した間文化的の特徴は際立つ側である。パフォーマンス研究にとっては、人類すべての行為や行動に何らかの共有の演劇的な要素がある。こうした普遍的な、行動を準拠した言語はそれぞれの文化のユニークさを無視せず、共通点や類似点を中心にするからこそ本来的に自己中心主義を越えると考えられる。さらに、浸透性や多様性、複眼的な側面も留意すべきである。パフォーマンス研究はシェクナーの述べる演劇と文化人類学、ひいては他の分野との接点を探求し、自らの適応性をも拡大できるように奮闘努力していると言っても過言ではない。最後に、テクストによる依存の超越をも目的としているのである。世界の物事を、静的なテクストである観察可能な図書館ではなく、動的で枚挙にいとまがない力関係に形成されたパフォーマンスとして捉えた方が良いのではないか、とパフォーマンス研究の主張である。
パフォーマンス研究は多岐に渡るアプローチであり、ややこしい点が少なくないかもしれないが、最も大事なのはこうしたアプローチにおいていかなる成果を獲得できるかのではなく、これを利用する中で新たな考え方が生じるかどうかということである。
3 日本の闘牛
日本で闘牛が開催されるのを知らない日本人(ましてや他の国の人)が驚くべきくらい大勢であるのは間違いない。したがってここでは、基本的に日本の闘牛の歴史と特徴と現状とをかいつまんでスケーチしておきたい。
代別すると、世界の闘牛には二種類が見られる。一つ目は、ヨーロッパとラテンアメリカで行われる人と牛とが戦うタイプと、東南アジアで行われる牛同士が戦うタイプがあり、日本の闘牛は後者に該当する。そもそも放牧中に牛に力比べをさせたりしていたものが、牛主の農閑期の娯楽として発展した。日本の闘牛の現在知られている最も古い記録は、12~13世紀に描かれた『鳥獣人物戯画』であるが、盛んになったのは江戸時代に入ってからであり、とりわけ明治から大正にかけての期間である(石川 2009: 117)。1948年には、連合軍総司令部により動物愛護を理由に闘牛は禁止されたが、愛媛、隠岐、越後の闘牛関係者などから陳情が繰り返され、2年後には解禁となった。にもかかわらず、特に1970年における農林業の機械化を起因となり役牛が飼育されなくなった結果、徐々に闘牛の活動は大変減衰していき、さまざまな地方(奄美大島、丈島、釜石市)で全く消滅に至った。日本で現在闘牛が見られるのは、北から岩手県久慈市、新潟県中越地方、島根県隠岐、愛媛県南予地方、鹿児島県徳之島、沖縄県(本島、右垣島、与那国島)の六地域だけである(石川 2009: 117)(図1)。
現在の闘牛用の牛は、過去と異なり未去勢の雄を用いられている。概ね、牛の持ち主は飼育者であると同時に、闘いにおいて牛に寄り添い牛を操る、勝利に導くために介助する勢子でもある。彼らは主として公務員、建設業、農業などという職業に就いていると言っても、どうしても勢子を務めることが多いものの、それができない場合、信頼できる他者に委任する。
図 1 日本の闘牛の開催地(石川2009により作成)
4 パフォーマンス研究から捉えた徳之島の闘牛
4.
1 生と死
闘牛と言えば、死との関係から切り離せないことである。文芸評論家福田和也は徳之島の訪問の体験により、「徳之島にはじめて足を踏み入れた時に覚えた死の臨在という直感は、最後まで覆されることがなかった。……にもかかわらず、徳之島の闘牛に死が匂うのは、闘いが生々しいからだ」(福田 2005: 11)と語っている。彼が示唆しているのはスペインやポルトガルなどの闘牛と異なり、徳之島の闘牛において死なない。しかしそれにしても、闘牛というパフォーマンスが表象する意味から考慮に入れば、ターナーが述べた「社会劇(social drama)」が両方のタイプにも見られる。ターナーによると、社会劇は、①社会を律する規範からの逸脱、②逸脱の進展により引き起こされる危機、③危機回避の努力としての調停や改革、④調停が成功した場合の逸脱者の社会復帰、もしくは調停失敗の結果として起こる追放や社会分裂の承認(Turner 1969)、という四つの階段である。実際に彼は社会劇の過程を通過儀礼に限らず、日常生活にも見いだした。したがって、「死」を目的としない徳之島の闘牛は、日常生活に読み取れる潜在的で気づきにくい社会劇(「as performance」〔パフォーマンスとして捉えられる〕)を、土壌で顕在的で一般にパフォーマンスと呼ぶ社会劇(「is performance」〔パフォーマンスであるもの〕)という形で表象すると考えられる。
ところが、上述のごとく、ヨーロッパやラテンアメリカの闘牛との相違点の中で、最も目立つのは人間と牛との関係であろう。牛と人の対決では自然(野生や無秩序)と文化(意志)の対決を意味するに対し、牛と牛の対決では牛と勢子と共に働く仲間を主張するとされる。さらに言えば、前者には人間と動物に越えることができない断絶が存在するが、後者ではもともと動物を人間以下の存在として劣等視する趨勢が弱かったと指摘する声がある(中村 1984)。こういった意味で、闘牛があくまでも引き起こす生と死の緊張では、もしかすれば徳之島闘牛の方がよりいっそう象徴化された闘牛であると言えるかもしれない。なぜかと言えば、一方で死に至る可能性が常に存在するが、殺すことは全く対象ではなく、他方で間接的に動物を通じて人間の生活にもある激しさや危険(死)を儀礼化し、表象するからである。福島の言葉を借りれば、「人間が生きることは、牛が生きることと同じように厄介であり、その厄介を癒してくれるのではなく、厄介である事自体のシンボルな強さを思い知らせてくれるような意味」(福島 2005: 16)である。
要するに、さらに深くパフォーマンス研究の視座から分析すれば、徳之島闘牛に関する死の概念では少なくとも二つのパフォーマンス的な要素が看取できる。一つ目は、結局的に常に危険な状態に陥られるのは身体であるに他ならない。言い換えれば、もっぱら構造主義とポスト構造主義をステートメントするフランス現在思想家に従えば、無論すべてテクストとして見られるだろうが、本来テクストを創造したり、移動したり、解釈したりするのは身体であるのに留意すべきである。身体は本棚に置いてある本どころか、絶え間ない危うい存在を背負わざるを得ないものである。牛を戦わせる中でこれは比喩的に浮き彫りにされる。二つ目は、牛が闘牛に出すために選ばれ、飼育され、訓練されるにもかかわらず、あらゆるパフォーマンスと同様に、闘牛自体は誰もが全くコントロールできることができない。こうしたズレを自明視するのは闘牛の際に起きる事故である。
4. 2 代々
徳之島の闘牛に関わる技能や知識などは家々に代々受け継がれてきたものである。別の言葉で言えば、島内の人が牛主の生活、牛の育て方、闘牛業の交渉、闘牛のコツ、儀礼を守ることなどに対する振る舞い方は決して初めてではないと言っても過言ではないのである。
例えば、牛の育て方にまつわる行為や行動を念頭に置きたい。闘牛を開催される日本の他の地域と比して、徳之島においては牛を当歳から闘牛牛として飼育するがゆえに、名牛の確立ははるかに低くなる。だが、もし横綱牛になるなら、極まりない喜びであるに間違いない。「徳之島では、全島一の牛主になることが、国会議員に当選すること数倍する、至上の名誉なのだ。ざらついた島の空気をしばらく吸っていると、それが納得されてしまう」(福田 2005: 7)。言うまでもなく殊に好まれている牛の種類がある。長い顔つきや太い首、外に出ている目玉があり、何よりも元気旺盛をもつ牛を優先される。徳之島では「登り八歳、下がり八歳」という言葉があり、その意味はある牛が強くなるかも弱くなるかも8歳が分岐点だという意味である(広井 1998: 42-43)。一方で、毎日トレーニングがあり、仲間の牛と出会うと、引き綱をつけたまま道ばたや畑で練習試合をする。普段と異なり闘いの前には鶏卵と鳥殻のスープを飲ませる。次節で取り扱う闘牛をめぐる儀礼をも同じく考えても良い。
シェクナーは、あらゆるパフォーマンスは「行動の再現(restored behaviour)」であり、ただ一度だけ行われる行動ではなく、幾度も、時にはほとんど無限に繰り返されるものであると主張している(Schechner 2013)。また、高橋(2011:
103)に倣って、「行動の再現は、元になったテクストや歴史上のイヴェント、あるいは神話を複製して、〈再提示=リ・プレゼント〉することではない。反復の過程で、行動は、重ね書きができるプリンプセストに記された物語のように、何度も書き換えられ、再構成、再構築されていく」ことである。
ただし、パフォーマンスに編集を加えることは、一般的にタブーと考えられているにもかかわらず、決して伝統的な型が、まったくそのままの形で伝承されるわけではない。ここでハンス・ゲオルク・ガダマー(Hans-Georg Gadamer)の「地平融合」という概念を使用したい。彼にとっては何かを理解するのに、一定の言語性と歴史性に立脚した独自が不可欠条件である(「影響作用史」)。換言すれば、先入観なしの解釈ということはない。そうであれば、解釈学的な過程には解釈者の地平と他者の地平とを融合することにより、新たな意味が生じる。したがって、パフォーマンスにおける模倣(ミメーシス)と擬態(ミミクリ)は動態的な過程であり、解釈は相互作用によることで異なると考えられる(Gadamer 1976)。
また、闘牛に絞られているアイデンティティも代々のことであり、身体と親密的に関われている。広井(1998: 31)によれば、徳之島の小学校、中学校の相撲部の人気を述べてから、「その小学校の男子に将来の夢を作文に書かせると、〔島で一番強い横綱牛を育てること〕と書くというから半端ではない。両手で角のように湾曲した木を持ち、闘牛ごっこをして育つらしい」と指摘している。
「自分が誰であり、どこに属しているのか」という感覚は、本質的に個人に備わっているものではない。アイデンティティはア・プリオリに存在するのではなく、歴史的・社会的に構築されるものと捉えられる。これはさらに掘り下げるために、モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)とマルセル=フランソワ・ルフェーヴル(Marcel-François Lefebvre)の理論を援用したい。
メルロ=ポンティは身体が自発的に機能する様子を詳細に分析することにより身体的実存の構造を描き出した。世界への到達は心よりも、むしろ身体の中でなされ、「体験(l'expérience vécue)」を名づけた。また、世界の認識は「生きられた・経験された身体(le corps propre)」と結びついている。これは世界を経験する身体、そして人(主体)が経験する身体である。メルロ=ポンティにとって世界は人間が考えるべき外に存在するものではなく、むしろ経験するための場である。結果、主体と客体は二元論ではなく、(身体化された)表裏一体である(Merleau-Ponty 1964)。
ルフェーヴルも身体を中心にした見方がある。彼にとって空間は人間が行動したり、変化したりする外部の場ではなく、むしろ空間自体は人を変化したりする主体である。一言で言えば、空間は感覚した空間と認識した空間という二つに別れた捉え方のみではなく、これらに体験された空間をも加えなければならない(Lefebvre 1991)。
さらに、福田(2005: 8)も広井と同じ話を指摘するが、次の一切些細ではない意味合いを加えている。「〔近頃の若いも者〕、〔世代断絶〕という、いたしかたのない決まり文句が、徳之島にはない。ない、と云うと、もちろん誇強なのだが、世代間のつながりは想像もつかないくらいに緊密だ。それがすべてでないことはもちろんだけれど、その分かりやすい現れが、闘牛であることは間違いない」。簡単に言えば、社会構築論の立場から、主体が先験的に存在するという考えの否定を意味する。高橋(2011: 47)が述べるように、「規範は模倣、引証され、規範と同じように心や体が無意識に反応するよう、反復によって内面化され、身体化されていく。いつの間にか規範はみんなが信じる「当たり前」のものとなり、規範に対し疑問を差し挟む余地までが失われていく」。
この場合、ジュディス・バトラー(Judith Butler)の「パフォーマティヴィティ」(「遂行性」)の理論が有用になる。前述したように、アイデンティティはその人が何であるか(being)の問題ではなく、何をするか、もしくは、させるか(doing)の問題である。これに加えて、バトラー(Butler 1997)は「逆説的な主張(paradox
of subjection)」を無視してはならないと指摘している。こうした逆説は主体性が人の主張に根差しており、切り離せないという諸刃の剣である。何らかの社会への主張のメカニズムが機能していないと、主体性は拠り所がなく、存在できない。これは徳之島のケースにおいてさらに明瞭に見えるかもしれない。プラスの意味とマイナスの意味とともに徳之島の人口は牛と結びつけられており、そこからこそ徳之島という共同体の集合的なアイデンティティが生じる。
最後に、バトラーの述べるパフォーマティヴィティはさまざまな言語行為にもうかがえると、イギリスの哲学者ジョン・ラングショー・オースティン(John Langshaw Austin)が主張した。彼は、存在している状態を説明する通常の「陳述分」(constative sentence)と区別し、発話が行為を生み、状態に変化を招く文章を「遂行文」(performative sentence)と呼んだ(Austin 1962)。これを言い換えれば、何かを発話することが何かを引き起こすのは、オースティンの主張である。これはかられることにより、徳之島の子供たちは「島で一番強い横綱牛を育てたい」や、「闘牛は今後も徳之島に必要だと思いますか」と聞かれ「はい」と答えることなどのような発話において単に情報を与えることではなく、一連のイヴェントをももたらすだろう。つまり、このような志望、目的、願望を発してから、新たな現実が形成されると言えよう。
4. 3 儀礼と習俗
山口(2011: 136)は思い出されてくださるように、パフォーマンスの起源は、古ギリシアのオリンピア地で行われていた芸術競技祭にまで遡り、身体は神により与えられた聖なる奉納の対象であった。しかるに身体は、神と対峙する個別な実体としてのみ認識されていたのではなかった。例として、ギリシア・クレタ島の壁画に見られる「雄牛跳び越え」は一定の通過儀礼を図像している。山口は、「〔雄牛〕は、大地を耕す力強さ、肥沃や多産のシンボルである。若い男性や女性は、向かってくる〔雄牛〕と対面し、その角をつかんで跳び上がり、雄牛の背に手をついて後方にとんぼ返りして着地する。成就すれば大人社会の仲間入りであり、身体が個体性を超えた社会的な象徴として働いていたと言える」(2011: 136)と説明している。
徳之島の牛主とその親戚は牛をめぐる一連の儀礼も行う。それらは娯楽としての目的となる闘牛と同時に、祖先崇拝や島民の火の神の信仰に関する意味をももつのは否めない事実である。人と牛と神を整理、調和する徳之島闘牛の儀礼と習俗を主に松田(1982)に従いながら敢えて要約したい。
まずは、「シキアワセ」という必勝祈願の習俗である。闘牛の開催日が近づくと、大安・友引などの日を選び、愛牛が勝利し、怪我しないように祈願される。お膳の上に清めの塩が四隅に盛られ、次に二本の銚子でそれぞれにお神酒が注がれる。こうした一セットを祖先の仏壇前に供え、祈願が行える。満潮時を見はからい出陣式を行うとき、両角の先端に少しかけられて祓いとする。その後、縁側などに足を乗れて座ること(「サゲシヤ」)が禁忌とされている。落ちることに繋がるからである。他の禁忌としては、家にお産がある場合、葬式はさておき、一ヶ月くらい出場させない。 ところで、神頼みも不可欠である。開催日の当週間には家の中で鳴り物や針仕事が厳禁。同様に、朝昼晩の三度の祖先と火の神への祈りと供養も必須である。
さらに、牛は霊界に通じており、悪霊の影響を最も受けやすい動物だと信じられている。例えば、牛舎の入口には、香りの強烈なトブラの木の枝を自製の注連縄でつり下げ、魔除けとして用いられる。この他、疲労防止のために、会場の近くに借りた牛小屋に移動するが、悪霊を防ぐために牛小屋の周囲に藁で左縄を作り、これにトベラの小麦を差して張りまわさなければならなくなる。しかも、クチという霊能者のいたずらに立ち至る牛の力の減退を防ぐために、牛小屋の入口の両脇に塩を盛っておくほかに、中に泊まり込みで番をした時代もあった。先ほど示した清めの塩は闘牛場に向かうとき(かつては歩いて。今はトラックで)、交差点や橋などでもまかれる。
角研ぎの準備も大変大事である。試合の約3週間前に角の粗研ぎをし、前日または当日の朝もする。石油を浸した紙を角に巻いて、点火して一瞬のうちに紙を抜き取る。やすりやビール瓶の被片をも用いられる。その他、角に塩をもみこんでおき、質が硬くなる。甘藷の青葉で磨く中で、粘液が染め込んですべりが出る。
続いて、牛の引き出しという厳粛な儀礼もある。牛主は牛を引いて前庭で左回りに三回引き回す。これはいかなる意味があるかと言えば、牛が無事に生き、また我が家に帰ってこられるようにとの願いという意味である。
引き出しが終わると、出陣の行進が始まる。最初は、大声で「ワイド!ワイド!(わっしょい)」と叫びながらラッパを吹いたり、太鼓(「チヂン」)を叩いたりする囃子、そして同一の勝ち祝いをする親戚とファンと友人である。「人と牛とが渾然一体となる瞬間だ。牛はもう単なる牛ではない。一族の名誉を担う象徴的な存在として人びとの間に息づいてくる。……闘いの日のために一族は仕事を休み、勝利を願って人知の限りを尽くす」(広井 1998: 39)。
そして、入場のときも、出陣と同じく男女を問わず支援が止まらない。折った手を挙げ、膝を高くあげて踊る。土壌で見られる歓喜と乱舞の上で、見せ場を作る役割がるのも応援してくれる観客である。観客では一万円までの祝儀を持参することもふつうである。勝ちが決まった瞬間、一族一党が場内になだれ込み、勝牛に飛び乗り、手舞い、足舞い、指笛で歓喜する。出陣の同じ囃子の音で勝牛は場内を意気揚々と一周する(遠藤 2005: 99)。
闘いの後、牛主は家で夜の更けるまで魚料理や豚肉料理、名物の黒砂糖焼酎などで多くの各人をもてなし、大きな酒宴が見られる。広井(1998: 41)が説くように、「島には〔牛持ちは一番バカ、見る者は二番バカ〕という俚諺がある」。
では、パフォーマンス研究の視座から、人と牛と神の三者が相通じあった雰囲気はどう見れば良いか。まず注意を促したいのは、外見に反して、これらの儀礼と習俗を行う人は出演者のみであるのではないということである。なぜかは、彼らは祖先と悪霊と牛をはじめ、親戚や友人、ファンなどにいつもサンクション(肯定的または否定的反応)されうるため、間接的でも観客でもあり、それによりある程度満足させる行動をしようとしていると言えよう。結果的には、生活を調和する力をもつのはこうした複数の儀礼と習俗の形というより、むしろ儀礼と習俗の遂行そのものであろう。とりもなおさず、遂行しないことに伴うサンクションのである。
そして、既に記述した儀礼と習俗はそれぞれパフォーマンスとして見なされるが、闘牛自体が主たるパフォーマンスとすれば、シェクナーの述べるパフォーマンスのプロセス、つまりパフォーマンスの前、中間、後、何が起こるかが明確に区別できる(Schechner 2013)。
第一には、闘牛の前は「トレーニング」が起こる。これは闘牛のときに基本的に使用する巧拙や知識であり、規則として代々受け継がれてきたものでもある。とれ人具の中でこうした技を身体化される。この段階にもいわば「研修会」もある。これは改善や新たな方法などについて考えるための時間であり、規範の外から意図するための時間とも考えられる。例えばこれは、大型の交通手段である全国闘牛サミットから親戚、友人、他の牛主、牛の売買者との議論、あるいは独りでの反省までに含まれている。また、闘牛の前にも「リハーサル」があり、トレーニングと研修会から学んだり、考えたりしたことから具体的なパフォーマンスを目的にどういうふうに演劇したいかを決めることである。
第二には、主なパフォーマンス、闘牛にも三つの段階が区別できる。まず、出陣や入場である「ウォーミングアップ」。これで何らかの境界を超え、別の世界に入る。次に、勢子は「パフォーマンス自体」の流れに乗って、牛の動きに釘付けること以外、ほぼ何も考えられる余裕のない短時間である。最後に、テンションが次第に下がり、体を洗い、着替え、日常生活に復帰するという「クールダウン」がある。
第三には、闘牛の後も、三つの段階がうかがえる。まず、特に親しい人からもらえる「クリティカル・レスポンス(critical response)」であり、賞賛と批判に当たる。続いて、「アーカイブ(archives)」を作る段階である。これを再利用するために、多種多様な形で闘牛にかけて起こったことを表記したり保管したりする行為である。最後に、「メモリーズ(memories)」、つまりさらに個人的なアーカイブであり、アーカイブと一致するわけではない。
これで引き出せる結論の一つとしては、一方では、徳之島の闘牛においては、共同体の集合的ならびに家族的なアイデンティティを確認するイヴェントが繰り返し再見、再提示される(規範の維持)が、他方では、多分に身体化されたパフォーマンスとしてこうした反復の過程こそで変化が生じるスペースも含意する(規範の攪乱)のに目をつぶることができない。
4. 4 闘い
ここにおいては、徳之島の闘牛の特徴を記述してから、具体的に闘いの間にパフォーマンスとして見られるさまざまな側面を触れたい。
徳之島の闘牛は、最初引き綱をつけたままで闘わせる。そして、闘いが激しくなったとき、勢子は頃合を見計らい、声を上げて合図をし、他の者が鎌で引き綱をサッと切る。自由になった牛はいっそう闘志をみなぎらせ、闘いを繰り広げる。この鼻綱の解放を上手にやらないと牛の鼻先を傷つける可能性があり、危険な上で、両方同時にカットするのは簡単ではないため、そこに往々にして不公平さも見られる。
他の地域と異なり、徳之島の闘牛は必ず勝負をつける。簡単に言えば、これは相手牛が逃げ出した時点で勝牛が決まる。時折突き刺しがあり、その状況で即座に勝負ありと判定されることもある。
闘いが終わると、牛取りが必要になるが、死亡した者は今までなかったと言っても、恐ろしい事故が起こることがある。
ここにおいて借りたいのはシェクナーの「変質(transformation)」と「移動(transportation)」の概念である(Schechner 2013)。あらゆる儀礼では、儀礼の結果としてアイデンティティが変わる者と、儀礼を指導し元のアイデンティティに戻れる者とが見られる。前者は変質された者に対し、後者は移動された者である。徳之島闘牛という儀礼化されたパフォーマンスの場合は、表面的な見方から個々の勢子は自らの牛を闘わせる中で牛を闘わなければならない状態に追い込み(移動され)、勢子自身が大会後酌み交わすなど中で元の状態に戻ると言えるのは明らかである。とはいえ、よりいっそう詳しく見れば、勝牛であるなら、現に自らがそれほど変わらない。野村が述べるごとく(1999: 7)、「[牛は]いったん負けると(負け方にもよるが)、[値が]一挙に数分の一以下に暴落する。恐怖感を知ったウシをなだめ、はげまして再起させるのはきわめてむつかしいからだ」。言い換えれば、牛は動物であっても、それぞれ別々の大会で勝たない(早晩負けるはずである)と、闘争心が失い、本質的に別の牛となる。もちろん、怪我をもとで片足を切断せざるを得ない勢子と想像すれば、元のアイデンティティに戻り難いのは間違いない。
6 むすび
では、当の分析においていかなる結論を引き出したかをまとめる。
① 日常的、そして文化的なパフォーマンスの繰り返しは何らかの共同体とその規範を確認する機能があるが、結局的にパフォーマンスであるからこそいつも同じように出演できるわけがなく、自然に変化が生じる。パフォーマンスは原則として規範の維持のために作用するものの、現状を変更する可能性が常に残されているため、すべての行動はしょっちゅう未完の状態にある。
② 一定の社会の状況下に伴う地元の人々の世界観や価値観、将来の展望などが身体の動き、つまり行動における言語から理解できる。徳之島のケースでは、特に「牛縁」という人と神と牛との関係性を分析する中で、島人におけるパフォーマンスとしての行動のさまざまな側面を読み解けた。
③ 掴みどころのないようなパフォーマンス研究というアプローチは、物事を新しい角度から見ることを可能にし、自らの適応性の幅広さが分かった。
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山口順子(2011)「身体」福田和也・桑嶋維『闘牛島 徳之島』平凡社。
[1] 筆者がこのようなペーパーを書こうとした理由は次の二つのきっかけの結果である。一つ目は、日本でも闘牛という競技が行われているのを知ったきっかけ。初めて大阪にある国立民族学博物館を訪ねていたに際して、映像番組が視聴できるビデオテークで『徳之島の闘牛』(野村
1990)という短編を見つけ、日本にも闘牛があるのは驚いた。二つ目は、おおよそ同じ時に偶然パフォーマンス研究にも出会い、こういう理論枠組みの応用範囲や可能性は幅広く、極めて興味深いアプローチだと思った。そして、敢えてこうしたあまり知られていない二つの世界を何らかの形で絡み合わせるのを試みた。
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